森川誠一郎 / 空蝉 utsu semi
「上を見な 飢えよ皆」
騒く情念。移ろふ空虚。陰陽の世界で放射される異形の音響。
十二年の経過に新たな瓦解と再構築を施した新訳エディション盤。待望の再発!
Z.O.A、血と雫のフロント・マン、森川誠一郎による2002年発表の初のソロ・アルバム『空蝉』が、新ミックスによる完全リニューアル盤として再発。サウンド・プロデュースにBorisのAtsuoを迎え、1145文字に及ぶ一遍の詩を6トラックに散らしたオリジナル盤の解釈に、新たな瓦解と再構築を施した新訳エディション盤。
うつせみ【空(△)蝉(×)】せみのぬけがら そのようにこの世はたよりなくはかないということ ▽もとは「現(うつ)し臣(おみ)」の詰まった形で「現(うつせみ)身」はこの世の人の意
- 搦のブルース karami no blues
- 共鳴り resonance
- 空気と水 inhale
- singing in the paper
- 雫さす pierce
- 現身 utsu semi
2014.07.09 release 再発盤
森川誠一郎:voice,electric guitar,keyboards,lyrics&produced
影山裕之:electric&acoustic guitar,12-strings guitar&e-bow
田中慎也:bass guitar
藤掛正隆:drums&percussions
SACHI:voice (track3,4,5),keyboards (track1,6)
LISA:voice (track1,3)
木村昌哉:saxophone (track1,4)
黒木真司:electric guitar (track1,5)
Atsuo:mix&sound produce
中尾一彦:recorded at es.studio
中村宗一郎:mastered at peace music
秋田和徳 : artwork&design
森川誠一郎の初となるソロ・アルバム『空蝉』はさまざまなレベルで衝撃的である。まず、ヴォーカリストのソロ作であるにもかかわらず、いわゆる歌メロらしい歌メロを森川は一切排除している。古文や漢文のような詩が七五調に徹底した語りでアルバム全体を貫く。“上を見な 飢えよ皆”といった言葉遊び的応答部など、陰に沈んだかのような七五調の語りにユーモラスな亀裂や場面転換のような効果を入れている。いずれにしろ、「空蝉」には他に類を見ない音楽が屹立している。なるべく頭を柔らかくして触れてもらえれば自ずと音楽は浸透してくるだろう。
石井孝浩(Fool's Mate)具体的にこのアルバムでは、ライブにおけるスタイルをベースにフリーな要素、プログレッシブ、ジャジーな空気を多分に匂わせるアレンジも顔を覗かせ深みのある展開を見せる。とはいえビートが刻まれるフレージングは、まさしくロックそのものである。そこに極めて日本的情緒のある女性ヴォーカルが入る。そしてなんといっても全面を占める森川の語りである。リリックの根幹を成しているのは、上を見な/飢えよ皆、といった言霊遊びも含め芥川の羅生門や末法思想に通じる日本独特な「情念」と「異形」と「空虚」の世界観。それを森川はロック・ヴォーカルのスタイルでなく、琵琶法師の如き口頭伝承のスタイル=語りで表現する。高水準なフォークロア・ロック・アルバムとでも呼ぶべき音源。
川口トヨキ(BACTERIA)森川誠一郎の声を初めて聴いたのは、確か1986年か1987年頃のことだと記憶している。それは、まるで言葉以前の叫びとでもいうべきもので、プリミティブな感情を剥き出しのままぶつけられたような衝撃だった。当時、日本のアンダーグラウンドなロック、インディーズのレーベルやアーティストというモノに興味を持ち始めたばかりの自分が最初に魅せられてしまったバンドのひとつがZ.O.Aだった。
その10年後、1996年には自分自身もインディーズレーベルの主宰者となり、まさか2014年の現在でも活動を続けることになるとは想像もつかなかったが…。余談だがそういえば後年、後に自分がProduceすることになるDir en grey(当時の表記)を初めて見た時にも、技術や方法論を超えた何か、言葉以前の叫びとか原始的な表現を根底に感じたような気がして、自分が好きになる表現の手段には決して表面的ではない何か共通するモノがあるのかもと感じたことを思い出す。
Z.O.A時代から作品を発表する度に変化進化深化を繰り返し、やがてはロックなのか、そうでないのかという境界さえも関係のない処にまで森川誠一郎は辿り着いてしまった。個人的にはそう感じてさえいた。
2000年に「仮想の人」が発売される頃までには既に発売される作品はライブ録音されその時々の「一瞬」を作品に封じ込めることに主眼を置いているかのような方法論が徐々に主になりつつあったし、幸いなことにその時期に共演させていただいたライブでも、当時の自分には完全には理解出来ないまでも、Z.O.Aが、そして森川誠一郎が、行くところまで行ってしまうのではないか?ロックとか音楽のフィールドさえも逸脱して違う世界へ表現の場を求めてしまうのではないか?という、遠く離れてしまうことに怯えるようなファン心理と同時に、歪んだギターや攻撃的なシャウトという直接的な方法論さえも徐々に変化させ、音楽的には明らかに80年代とは違うモノに進化しているはずのZ.O.Aと森川誠一郎が、ある意味、回帰を果たしつつあるようにも感じられ、(「仮想の人」のアートワークが80年代後期のV.A「TRANS CRAZE」を連想させたのにも理由があるかもしれない)行くところまで行き着き、そしてまた帰るべきところへ回帰する魂が、まるで「空」に還る天使のようについにその羽根を手にしつつあるのでは、とさえ感じとることができた。
だからその後、Z.O.Aが長らく作品を発表しなくなってしまったこともこの2002年にオリジナル盤が発売された森川誠一郎初のソロ作品「空蝉」が発表されたときも、自分は抵抗なく受け入れることができたし、いちファンとしてはそれはそれはとても寂しいことでもあったけれど、この後、彼が10年間に渡って公式な作品を発表しなくなることも、予感していたとまでは言わないまでも、自分には納得出来る部分があったのだ。森川誠一郎は行ってしまったのだと…。
それから、10年の歳月を経て「血と雫」として森川誠一郎が再び動き始めた。10年以上ぶりに見た彼は現在も当時と変わらず色濃い影を纏い、闇の中にだけ見える羽根を携えているかのようだった。
そして今回、12年ぶりに森川誠一郎初のソロ作品「空蝉」が再発される。闇の中でその言霊は粒子を震わせてこの胸にまで刺さる。混じり気のない表現衝動だけが変わることなく、むしろかつてよりも照準が絞られ研ぎ澄まされている。どこかに「土」を感じるのはブルースの匂いなのか、メロディらしいメロディなど持たない朗誦でありながらその声は紛れも無くロックを感じさせる歌唱でも在るのだ。抑揚はビートを感じさせ、ビートは鼓動であり、まさに生命の鼓動、リズムが脈打つ様が刻み込まれている。リズムとは言い換えるとすれば此処では「間」であり、その「間」こそがボーカリスト、あるいは表現者としての彼を唯一無二の存在たらしめている大きな要素だと自分は考えている。この新訳版とでも言うべき2014年版の「空蝉」ではかつて発売されたオリジナル盤よりもその「間」の構築に重きを置かれているようにも、自分には感じられた。
「仮想の人」以降の「空蝉」そして「血と雫」一連の作品へと連なる秀逸なアートワークにより想起させられている部分も多いと思うのだが、個人的にはこの「空蝉」という作品には、Z.O.A〜血と雫へと繋がるミッシングリンクをも内包し、確かにそれが此処には在るという気さえしている。この作品が、運命のいたずらとも言うべきこのタイミングで新たな姿を得て、2014年の現在に我々が手にすることが出来るとは実に奇妙でありながら必然とも感じられ、非常に興味深い。
想えば、あれから、長い長い時間を経て、それでもなお僕にとって森川誠一郎の「声」は、いつだって光であり、痛みだ。